茶色い沼からこんにちは

めせもあ。(MeseMoa.)の茶色担当の人をひっそり推してる女性の一人遊びです

愛猫の死と「庭の樹」

今週のお題「わたしのプレイリスト」

 

2年前の7月。愛猫を亡くした。16歳だった。

 

6月末日に突然具合を悪くし一週間近く入院をして、回復の見込みがないので自宅で看取ることにした。退院した翌日、家族に見守られて愛猫は逝った。

苦しむ姿を見せず、獣医師に渡された麻酔を使わせることなく、ままごとのような看病の時間を与え、最期のときを知らせてちゃんと見送らせてくれた。

推しの凱旋、愛猫が退院した日は札幌公演最終日だった。私は前乗りして札幌2daysを楽しみ、翌日は茶推し仲間と北海道旅行をする予定だった。

その日使うことがなかったチェキ券を今でも捨てられずにいる。

 

いつまでも泣いていてはいけないので、日常を取り戻す努力を家族は始めた。母は趣味を再開し、私も埼玉のライブからツアー参戦を再開した。

最終日の御殿場公演は二日間通いのつもりだったが、思い切って宿を取って泊りがけで参戦もした。

ファンミーティングも当たり初参加もした。台風で1日中止になったものの、大阪のチェキ会も泊りがけで行った。

年越しライブは前乗りして茶推し仲間と京都にも行った。

楽しい時間を過ごしている。推し事を心置きなく楽しくできている。

普段通り、通常通り。

でも、自分の中の何かよくわからないところが変わってしまった。

そのことにちゃんと気が付いたのはわりと最近のこと。

あの柔らかくて愛想のない、尖った耳が愛らしくて抱っこが嫌いな生き物。

夜にベッドにやってくると重くて暑くて寝られない生き物。

両親が泊りに行ってしまうと、その存在が気になって遠征も出来なくなってしまう生き物。

いつだって心のどこかで気になっていて、たとえば運転をしているときも一匹残しては死ねないとハンドルを握り直すような存在。

重しのようで、面倒なようで、どこまでも愛おしい。

その存在が消えてしまって私の中に重しが無くなって、どこかフワフワと足がつかない感覚が続いている。

足が地に着かないまま推し事をしていると、ライブを観ているその瞬間は楽しくて仕方ないけれど、一方で何か不安感が常にある。

そうか、これが「心にぽっかり穴があく」ということなのか。

二年も経って気が付くなんて鈍いにも程がある。

 

埼玉公演で私は「ラブラブチュッチュイエイイエイイエイ」に号泣する心配しかしてなかった。猫ちゃんを歌った歌で、愛猫が元気だった時から泣き所ソングだったからだ。

でも、思わぬ曲で涙が止まらなかった。

「庭の樹」

 

ちなみに今は「ラブチュ」を聴いても涙が出ない。ただただ楽しい気持ちで聴いている。あれは、現在進行形で猫を飼っている人が、家で待っている猫を想って涙しちゃうのだろう。

 

しかし、「庭の樹」を聴く勇気は今の私にはない。絶対に泣いてしまうから。

 

「君のぬくもり やらかさ 愛しさ 儚さ 消え去ってしまう」

忘れないようにってあんなにも撫でた頭の感触、ふわふわの毛、よく動く尻尾の先。尖った耳の冷たさ。柔らかな手。それなのにもう忘れかけている。

 

「街の店先 人混み 待合所 交差点 探してしまう」

「君と似た髪 残り香 服の色 話し声 目で追ってしまう」

だって探してしまう。よく似た柄の、よく似た鳴き声の、よく似た視線のあの子を。

家の中で、ベランダで、その気配を、面影を。

長らく着ていなかった冬服に付いた毛を捨てることも出来ずジップロックに集めてしまう。だって、もう増えることはないから。

愛猫が亡くなって一番堪えたのは、その瞬間から愛猫のことを話す場合、すべてが過去形になってしまうこと。それが嫌だった。

そして私はいまでも愛猫を過去形で語ることが出来ない。

 

いつか心の穴が少しずつ埋まっていって、愛猫を過去形で笑顔で語れる日が来たら、「庭の樹」をちゃんと聴けるだろうか。

早くそんな日が来て欲しいような、来てしまう日が怖いような複雑な気持ちで

私は今日も「庭の樹」を外したプレイリストを聴いている。