誰にでもそれぞれの「36号線」がある話
「野崎さんは去年、エゾザクラを見ることが出来ただろうか」
2016年の春。自転車を漕ぎながら、咲き誇るソメイヨシノを見てぼんやり思った。
北海道で桜が咲くのはゴールデンウィークの時期。野崎さんが上京したのは3/31。
上京一年前、中野サンプラザ前のツアーと社会人生活の掛け持ちで忙しかった彼にゆっくり桜を見る時間なんてきっと無かっただろう。上京を決めていた時期だっただろうけど、東京で見ることは出来ない地元の桜を見納めになるなんてことまで意識はいかない。
人は誰でも日常にあるときは気が付かない。当たり前過ぎて、日常に埋もれてしまう。そして、日常じゃなくなるときに気が付くんだ。
「この先36号線」を聴いたときにまず思い出したのが、2016年の私の記憶だった。
──あぁ、野崎さんはエゾザクラを見ることが出来たんだろうか。
答えは歌の中にあった。
2回目に聴いたとき、私の中には一昨年まで通っていた道が浮かんだ。
銀行、ファミレス、コンビニ、畑、幼稚園、古い家の大きな桜。ずーっと続く片側一車線に申し訳程度の歩道。その道を自転車で走る。
異動前に毎日通った道。異動が決まってから「あと何回この道を走れるかな」と思ったこと。それでもあと僅かと知りながら、その日が来るまで実感もなく日常の忙しさに埋もれたこと。
なんでもない道、噛みしめることもないまま、そんなことを考えたことすらすぐに忘れていた。
その光景が浮かんで涙が出た。懐かしかった。
タイトルに付けられた36号線という国道から、きっと誰もが野崎さんの故郷、北海道を思い浮かべて彼の背景と重ねたと思う。でも、その一方で多くの人が自分が持っている懐かしい、過ぎ去ってしまった景色を見たんじゃないかとも思う。
街路樹、コンビニ、車線、電線、ファストフード銀行、並べられた言葉は具体的だけど、誰もが簡単に自分の景色として浮かべられる言葉。たとえばここで「ナナカマド」とか「セイコマ」とか「道銀」とか、北海道色の濃い言葉を使ったり、車窓からの風景を叙情的表すことで「野崎弁当のエモさ」を強調することも出来たはずだ。それをしないで、敢えて乾いた表現と感情を乗せることで誰もが心の奥に持っている、かつてあった日常を思い起こさせ、聞き手にリアルで静かな感傷を与えている。
「切ない」と百回書いても切なさは伝わらない。それを伝えるには確かな描写を重ねていくしかないのだ。
だから、これは野崎さんのソロでバックグラウンドに野崎さんの旅立ちが見えたとしてもそれだけじゃない。誰にでも当てはまる、野崎さんを知らない人でも心を掴まれる歌なんだと思う。
そして、今のMeseMoa.のようだなとも思った。
休憩時間に一緒にご飯買いに行ったり、冗談言って笑ったり、練習に追われたり、当たり前にそこにあるからカウントダウンを刻めない。
チケット取って電車や飛行機を取ってライブに行け笑顔の彼らに出会えるし、特典会取れれば話が出来る。当たり前にそこにあるからカウントダウンを刻めない。
あと何回って思うけれど、本当のところはきっと終わりそうになって気が付く。もしかしたら終わってしまってから気が付くのかもしれない。実感なんて今はない。
きっとみんなそうなんだ。為す術もなく、どうすることも出来ずに、時間は進んでいく。
そのときに何度も後悔して泣く。それは仕方ないんだ。
だけど、いつか振り返ったときにキラキラ輝いて見えたらいいな。
すごく個人的な感想を最後に。
「この先36号線」は季節なんてどこにもないのに冬の凛とした空気が見えた。蒼い明け方の澄んだ冷たい朝の空気。それはGoogle+で書かれた野崎さんのかつてのブログと同じに思えた。
変わらないからなのか、あの頃から積み重ねた今だからなのか。それはわからないけれど、凛とした冬の蒼い空気が見えたのが嬉しかった。
おわり