MeseMoa.幕張メッセ公演と35歳になった推しの話
今回のライブに行けなくても、またライブはあるから。
そう言えていたのは一年以上前の話。
MeseMoa.の幕張公演は開催されるかどうか本当に綱渡り状態だった。
開催できたことは奇跡だと思った。暴風雨さえ彼ららしいと思った。
二階正面のスタンド席、後ろの方。メインステージからは遠く顔だって見えない。
それでも大きなところでライブが出来る奇跡を、夢がまた叶う瞬間を味わう醍醐味にワクワクしていた。
ただ、泣くことはないだろうなと思った。
ライブ自体は豊洲で何度か行われていたから、そのときほどの涙は出ないだろうと
私は高を括っていた。
結論として、悔しいことに私は泣いた。
幕張メッセという大きな舞台で、推しが自分で勝ち取ったセンター曲「New Sunshine」を
踊り歌う姿には掛け値なしで泣いた。
オペラグラスは持たずに行った。見えなくても自分の目で観たかったのだ。
それでも私には推しがちゃんとわかった。同じ色の衣装で顔もよくわかんないのに目が吸い寄せられる人が野崎さんだった。
ファンからすれば当たり前かもしれないけど、そんな自分を初めて誇らしく思えたし自信を持てた。
「私は意外とちゃんと野崎さんのことを観てきたんだな」
たぶんよくわかんない話だと思うけど、幕張メッセのライブで私は自分が推してきた道程を振り返るような不思議な気持ちになったのだ。
出会った頃。彼らはモーニング娘。さんの音源を流してカバーダンスを踊る人たちだった。
「踊ってみた」から出てきた「踊り手」さん。
だから、ライブで観ると正直歌は上手と言えなかった。
でも彼らは「踊り手」なんだから仕方ない。だって歌は専門外だもん。
それがどうだろう。いつの間にかハモリは当たり前、三声、場合によっては四声で
コーラスグループのように歌う。しかも踊って歌う。
そして幕張でイヤモニをつけて初めてライブをしたら、ビックリするくらい音が外れない。ちょっとのズレさえほぼない。
泣きながら踊りながら歌ってもブレない。
「踊り手」なんだから「歌が下手でも当たり前」。
そんな評価はいつの間にか消えて
「歌が武器の一つ」になっていた。声の響きで人を感動させることが出来る「アイドル」になっていた。
アンコール後の挨拶。
エースで常に自信に満ちたあおいくんがコロナ禍での不安だった一年を語った。
リーダー白服さんは現場に来た人が一抹の罪悪感や後ろめたさを感じながら来ていること、来られなかった人が申し訳なさを感じていること、それらすべてを掬い上げて肯定し、選択をする苦しさや切なさを労ってくれた。
突然降りかかった世界レベルの厄災に
ライブは日常のものでは無くなってしまった。
去年の春先は、今を我慢したらきっと梅雨ぐらいにはライブに行けると思ってた。
でもそんなことはなくて、エンタメ自体が悪のように言われるようになった。
秋頃から各地で恐る恐るとライブが行われるようになって
今も誰もが行ける状態ではなく、日常だった趣味は慎重に慎重を期す一大イベントに
なってしまった。
彼らの不安や渇望は、初期から彼らを支えてきたhalyosyさんの手で歌となり彼らの声で私たちに届いた。
「夢は努力を裏切る 平等なんて叶わない そんなのとっくに知ってる」
「なのに何一つ諦められない」
「君に会いたくて 君に会いたくて 君に会いたくて 君に会いたくて」
「今すぐ名前を呼んでよ」
求めるように伸ばされた腕に、涙混じりの歌声に、それでも美しく交差する彼らの舞に、涙を止めることなんて無理だった。
何一つ諦めないでくれてありがとう。
ライブをしてくれてありがとう。
あんな広い会場で少しでも近くに来ようとトロッコから手を振ってくれてありがとう。
今すぐ名前をコールしたい。接触とかトークコールとかじゃなくて
ライブ中にあなたの名前を呼びたい。
出会ってから7年。そうやって名前を呼んで画面の向こうじゃない君たちに私は夢を貰っていた。
そして幕張メッセ公演前日に35歳になった推し、野崎弁当は「もっともっと」という言葉を使った。
Zepp公演でも野崎さんは「もっともっと」と言っていた。
あれから6年。歌もダンスも本当に上手になって、外部の仕事もするようになった推し。
それなのに「もっともっと」と上を目指す声はあの頃と同じに聞こえた。
そのことがどうしようもなく嬉しかった。人は変わるし、変わらなきゃいけないこともあるけれど、35歳になった野崎さん、変わらないでいてくれてありがとう。推していて良かった。幕張に立てて良かった。
いつか武道館に立った日に、同じように「もっともっと」と言ってくれたらいいな。
それを無数の茶色い光の一つになって見つめることが私の新しい夢だ。
それでは、またね。