茶色い沼からこんにちは

めせもあ。(MeseMoa.)の茶色担当の人をひっそり推してる女性の一人遊びです

野クソ弁当というシンメトリーでアンシンメトリーな関係の話

2025年5月17日 「phamtoM thief 〜code:M〜」愛知公演 ペア演目 野崎弁当、ノックソによる

「サターンズリング」

 

1部終了直後に落としたポスト(旧tweet)

死因 お耽美(野クソ弁当)」

 

ペア演目開始、二人がセンターではなく上手と下手に分かれてスタンバイ。あ、これはBecause of Youではない。無感覚的感傷性完全制御装置で名古屋城爆破でもない。チルノだったりしないよな……。

 

なんていう甘い茶推しの想像を全力でぶん殴ってきました。軽く見積もってすみませんでした。とんでもなく重いものを見せられた。あの頃の純な私を返して!!

踊り子さんのノックンが本当に美しくて繊細で、この世のものとは思えない気がしたんだよね。鞭で打たれる様さえ殉教者のように美しい。なんだか倒錯的な感じ。

そして野崎さんは神なのでね(この曲では)。余裕とどこか見下ろすような笑みを浮かべながら堂々といたぶっていくわけですよ。

そして何事もなくラスサビ。このまま終わったとしてもね、たぶん一騒ぎな演目だったと思うんです。

でも我々を野クソ弁当サタリン以前以降に分けられてしまう出来事、忘れられない呪いのような、これはもしかして集団幻覚だったんだろうかと思わせる展開が待ち受けていたのでした。

 

マイクを奪って野崎さんの口を塞ぐノックソさん(公式ポスト、LINEより)

こんな感じですね。(ノックソさんInstagram

 

(公式ポスト、LINE動画)

 

黒い衣装の背中に縋りつく野崎さんの白い手がまるでノックソさんに絡まる蔦のようで、震えるように這うその白い手は服従しながらも支配しようとしている。

そう、服従していたノックソさんが野崎さんを最終的に従わせたように。

オセロのように変わる盤面。白と黒。

ほぼ同じ身長にやせ形の身体、白い肌、体格的にはシンメトリーなのに全く違う性格と雰囲気を持っている。顔立ちは揃って耽美。耽美ではあるけど柔らかな美しさを持つノックソさんと精悍な美しさを持つ野崎さん。シンメトリーなはずなのにアンシンメトリーなのだ。

その不安定で美しい二人が、入れ替わる関係性をより際立たせて妖しい耽美な世界へ導いている。

最後の主従逆転、手に入れた悦びに綻ぶノックソさんの口元。そして背中を這う白い手。

しばらく戻ってこられなかったですね。

1部終わった後、茶推し3人なぞのため息を何度も漏らし、急に堰を切ったように語るか、「主従逆転」「手が……手が……」「美しい」「夢?都合のいい夢?」「映像くれ」などのうわ言を繰り返すという、2022年野崎弁当聖誕祭1部以来の演目に打ちのめされて戻れない現象が起きていました。

楽曲選択、構成、演出野崎弁当なんですね、野崎弁当→ノックソへの主従逆転劇ほんとに解釈の一致です、公式が最大手とはよく言ったものですが、これはBLなんてかわいいもんじゃないですよ、耽美、耽美ですよ。美の暴力です。我々は膝をつき屈するしかない。

 

サターンズリングは相方によって見え方が変わる演目で

vsぱんめんさん オリジナル。ぱんめんさんが野崎さん大好きでいてくれるので支配される神を妄信して愛の奴隷になっている。

 

vsまさやくん 当時10代だっけ。美少年が神の生贄に捧げられた禁断の見ちゃいけない世界。ギリシャ神話的な。

 

vsぷんちゃん 神に仕える神官が神によって召し出されて支配され鞭うたれるが、少しずつ従属の悦びに打ち震えるように変わっていく。

 

vsノックソさん←NEW 耽美。主従逆転が土星の輪のように延々と続いていく。支配し支配される関係。

 

勢いのまま書き始めたけど言葉で足りないし語れないや。映像ください。本当お願いします。

 

野くそ弁当はいいぞ。

 

 

 

 

誰にでもそれぞれの「36号線」がある話

「野崎さんは去年、エゾザクラを見ることが出来ただろうか」

 

2016年の春。自転車を漕ぎながら、咲き誇るソメイヨシノを見てぼんやり思った。

北海道で桜が咲くのはゴールデンウィークの時期。野崎さんが上京したのは3/31。

上京一年前、中野サンプラザ前のツアーと社会人生活の掛け持ちで忙しかった彼にゆっくり桜を見る時間なんてきっと無かっただろう。上京を決めていた時期だっただろうけど、東京で見ることは出来ない地元の桜を見納めになるなんてことまで意識はいかない。

人は誰でも日常にあるときは気が付かない。当たり前過ぎて、日常に埋もれてしまう。そして、日常じゃなくなるときに気が付くんだ。

 

「この先36号線」を聴いたときにまず思い出したのが、2016年の私の記憶だった。

──あぁ、野崎さんはエゾザクラを見ることが出来たんだろうか。

答えは歌の中にあった。

 

2回目に聴いたとき、私の中には一昨年まで通っていた道が浮かんだ。

銀行、ファミレス、コンビニ、畑、幼稚園、古い家の大きな桜。ずーっと続く片側一車線に申し訳程度の歩道。その道を自転車で走る。

異動前に毎日通った道。異動が決まってから「あと何回この道を走れるかな」と思ったこと。それでもあと僅かと知りながら、その日が来るまで実感もなく日常の忙しさに埋もれたこと。

なんでもない道、噛みしめることもないまま、そんなことを考えたことすらすぐに忘れていた。

その光景が浮かんで涙が出た。懐かしかった。

 

タイトルに付けられた36号線という国道から、きっと誰もが野崎さんの故郷、北海道を思い浮かべて彼の背景と重ねたと思う。でも、その一方で多くの人が自分が持っている懐かしい、過ぎ去ってしまった景色を見たんじゃないかとも思う。

街路樹、コンビニ、車線、電線、ファストフード銀行、並べられた言葉は具体的だけど、誰もが簡単に自分の景色として浮かべられる言葉。たとえばここで「ナナカマド」とか「セイコマ」とか「道銀」とか、北海道色の濃い言葉を使ったり、車窓からの風景を叙情的表すことで「野崎弁当のエモさ」を強調することも出来たはずだ。それをしないで、敢えて乾いた表現と感情を乗せることで誰もが心の奥に持っている、かつてあった日常を思い起こさせ、聞き手にリアルで静かな感傷を与えている。

「切ない」と百回書いても切なさは伝わらない。それを伝えるには確かな描写を重ねていくしかないのだ。

だから、これは野崎さんのソロでバックグラウンドに野崎さんの旅立ちが見えたとしてもそれだけじゃない。誰にでも当てはまる、野崎さんを知らない人でも心を掴まれる歌なんだと思う。

 

そして、今のMeseMoa.のようだなとも思った。

休憩時間に一緒にご飯買いに行ったり、冗談言って笑ったり、練習に追われたり、当たり前にそこにあるからカウントダウンを刻めない。

チケット取って電車や飛行機を取ってライブに行け笑顔の彼らに出会えるし、特典会取れれば話が出来る。当たり前にそこにあるからカウントダウンを刻めない。

あと何回って思うけれど、本当のところはきっと終わりそうになって気が付く。もしかしたら終わってしまってから気が付くのかもしれない。実感なんて今はない。

きっとみんなそうなんだ。為す術もなく、どうすることも出来ずに、時間は進んでいく。

そのときに何度も後悔して泣く。それは仕方ないんだ。

だけど、いつか振り返ったときにキラキラ輝いて見えたらいいな。

 

すごく個人的な感想を最後に。

「この先36号線」は季節なんてどこにもないのに冬の凛とした空気が見えた。蒼い明け方の澄んだ冷たい朝の空気。それはGoogle+で書かれた野崎さんのかつてのブログと同じに思えた。

変わらないからなのか、あの頃から積み重ねた今だからなのか。それはわからないけれど、凛とした冬の蒼い空気が見えたのが嬉しかった。

 

 

おわり

 

 

素直にワクワクしなかったことを後悔した話

我らのお台場パレットタウンが営業終了した。

我らとは何事か。そう言われると困るんだけど、我らとは「むすめんばー()だった我ら」のことだ。
いや、そんな呼称を自ら名乗ったことないけど。

むすめん。(現MeseMoa.)とお台場は関係が深い。
そう、かつて生誕祭はお台場にあった東京カルチャーカルチャーで行われていたのだ。
生誕祭だけじゃなく、秋祭りや夏祭りなどといったイベントも開催されていた。

そういったカルチャーカルチャーさんを使用するイベントで一大特典として待ち受けていたのが

半券の抽選で当選した人がメンバーと観覧車に乗れる

という企画だった(1:1ではなく2:2とか3:3)!

一大特典だと大壇上に構えながら何でこんなあやふやなのかと言いますと

「推しと観覧車とかなに話していいかわかんないし気まずいし。どうせ当たらないし。なんか期待したりドキドキするの良い年して恥ずかしいから嫌だな。どうせ当たらないし。ともかく自分には関係のない特典なんだろうな、どうせ当たらないし」

という射に構えまくったテンションで臨んでいたからです。
当時は推し始めで1番ドキドキワクワクして良い時期だというのに、そうするのが何か恥ずかしいことのように感じてしまい、
「どうせ自分には当たらない」という自己暗示をかけてその抽選から目をそらすようにして過ごしていたのです。
まぁ、当たりませんでしたけどね。

今日、パレットタウンの営業終了そして観覧車の営業終了の記事を読んで
様々な思い出(初めての生誕祭から肉フェス、ビーナスフォートのフリラなどなど)を振り返っている中で
ふと「メンバーと観覧車に乗れる」という特典を思い出したのです。
だけど、私にはその記憶がぼんやりで。どんなルールかも抽選がどんなかも、どんな気持ちで観覧車を見たのかも何も思い出せなくて
ただ(どうせ当たらないし)というネガティブな記憶がそこにあるだけなんですよね。

当たるかな? 当たったらいいな。当たりたいなー。
そんな明るい気持ちでドキドキしながらそのイベントを素直に楽しめたら、また違う記憶があったのかもしれない。
「イイ年して大人気ない」
「気まずいし自分じゃ相手も気まずいだろう」
「当たるわけない」
「期待するなんて恥ずかしい」
そうやって防御のために射に構えまくっていても、何も記憶に残らないんだな。

あんなに大きくて綺麗な観覧車が無くなってしまうなんて思いもしなかった。
寂しい気持ちになるのに「こんな企画あったな……」だけで何も思い出せないのは意外と悲しい。
「当たったらどうしようってドキドキしたよね!」 なんて懐かしい気持ちで振り返るほうがきっと幸せな気がする。

もっと素直にドキドキワクワクを楽しめば良かった。

これからは、私くらいは私自身のドキドキワクワクを否定しないでいけたらいいな。きっとまた後悔するから。

そういうことに気がつかせてくれたお台場パレットタウンの営業終了。

今までありがとうございました。お疲れ様でした。

愛猫の死と「庭の樹」

今週のお題「わたしのプレイリスト」

 

2年前の7月。愛猫を亡くした。16歳だった。

 

6月末日に突然具合を悪くし一週間近く入院をして、回復の見込みがないので自宅で看取ることにした。退院した翌日、家族に見守られて愛猫は逝った。

苦しむ姿を見せず、獣医師に渡された麻酔を使わせることなく、ままごとのような看病の時間を与え、最期のときを知らせてちゃんと見送らせてくれた。

推しの凱旋、愛猫が退院した日は札幌公演最終日だった。私は前乗りして札幌2daysを楽しみ、翌日は茶推し仲間と北海道旅行をする予定だった。

その日使うことがなかったチェキ券を今でも捨てられずにいる。

 

いつまでも泣いていてはいけないので、日常を取り戻す努力を家族は始めた。母は趣味を再開し、私も埼玉のライブからツアー参戦を再開した。

最終日の御殿場公演は二日間通いのつもりだったが、思い切って宿を取って泊りがけで参戦もした。

ファンミーティングも当たり初参加もした。台風で1日中止になったものの、大阪のチェキ会も泊りがけで行った。

年越しライブは前乗りして茶推し仲間と京都にも行った。

楽しい時間を過ごしている。推し事を心置きなく楽しくできている。

普段通り、通常通り。

でも、自分の中の何かよくわからないところが変わってしまった。

そのことにちゃんと気が付いたのはわりと最近のこと。

あの柔らかくて愛想のない、尖った耳が愛らしくて抱っこが嫌いな生き物。

夜にベッドにやってくると重くて暑くて寝られない生き物。

両親が泊りに行ってしまうと、その存在が気になって遠征も出来なくなってしまう生き物。

いつだって心のどこかで気になっていて、たとえば運転をしているときも一匹残しては死ねないとハンドルを握り直すような存在。

重しのようで、面倒なようで、どこまでも愛おしい。

その存在が消えてしまって私の中に重しが無くなって、どこかフワフワと足がつかない感覚が続いている。

足が地に着かないまま推し事をしていると、ライブを観ているその瞬間は楽しくて仕方ないけれど、一方で何か不安感が常にある。

そうか、これが「心にぽっかり穴があく」ということなのか。

二年も経って気が付くなんて鈍いにも程がある。

 

埼玉公演で私は「ラブラブチュッチュイエイイエイイエイ」に号泣する心配しかしてなかった。猫ちゃんを歌った歌で、愛猫が元気だった時から泣き所ソングだったからだ。

でも、思わぬ曲で涙が止まらなかった。

「庭の樹」

 

ちなみに今は「ラブチュ」を聴いても涙が出ない。ただただ楽しい気持ちで聴いている。あれは、現在進行形で猫を飼っている人が、家で待っている猫を想って涙しちゃうのだろう。

 

しかし、「庭の樹」を聴く勇気は今の私にはない。絶対に泣いてしまうから。

 

「君のぬくもり やらかさ 愛しさ 儚さ 消え去ってしまう」

忘れないようにってあんなにも撫でた頭の感触、ふわふわの毛、よく動く尻尾の先。尖った耳の冷たさ。柔らかな手。それなのにもう忘れかけている。

 

「街の店先 人混み 待合所 交差点 探してしまう」

「君と似た髪 残り香 服の色 話し声 目で追ってしまう」

だって探してしまう。よく似た柄の、よく似た鳴き声の、よく似た視線のあの子を。

家の中で、ベランダで、その気配を、面影を。

長らく着ていなかった冬服に付いた毛を捨てることも出来ずジップロックに集めてしまう。だって、もう増えることはないから。

愛猫が亡くなって一番堪えたのは、その瞬間から愛猫のことを話す場合、すべてが過去形になってしまうこと。それが嫌だった。

そして私はいまでも愛猫を過去形で語ることが出来ない。

 

いつか心の穴が少しずつ埋まっていって、愛猫を過去形で笑顔で語れる日が来たら、「庭の樹」をちゃんと聴けるだろうか。

早くそんな日が来て欲しいような、来てしまう日が怖いような複雑な気持ちで

私は今日も「庭の樹」を外したプレイリストを聴いている。

 

 

MeseMoa.幕張メッセ公演と35歳になった推しの話

今回のライブに行けなくても、またライブはあるから。

そう言えていたのは一年以上前の話。

 

MeseMoa.の幕張公演は開催されるかどうか本当に綱渡り状態だった。

開催できたことは奇跡だと思った。暴風雨さえ彼ららしいと思った。

 

 

二階正面のスタンド席、後ろの方。メインステージからは遠く顔だって見えない。

それでも大きなところでライブが出来る奇跡を、夢がまた叶う瞬間を味わう醍醐味にワクワクしていた。

ただ、泣くことはないだろうなと思った。

ライブ自体は豊洲で何度か行われていたから、そのときほどの涙は出ないだろうと

私は高を括っていた。

 

結論として、悔しいことに私は泣いた。

幕張メッセという大きな舞台で、推しが自分で勝ち取ったセンター曲「New Sunshine」を

踊り歌う姿には掛け値なしで泣いた。

 

オペラグラスは持たずに行った。見えなくても自分の目で観たかったのだ。

それでも私には推しがちゃんとわかった。同じ色の衣装で顔もよくわかんないのに目が吸い寄せられる人が野崎さんだった。

ファンからすれば当たり前かもしれないけど、そんな自分を初めて誇らしく思えたし自信を持てた。

 

「私は意外とちゃんと野崎さんのことを観てきたんだな」

 

たぶんよくわかんない話だと思うけど、幕張メッセのライブで私は自分が推してきた道程を振り返るような不思議な気持ちになったのだ。

 

出会った頃。彼らはモーニング娘。さんの音源を流してカバーダンスを踊る人たちだった。

「踊ってみた」から出てきた「踊り手」さん。

だから、ライブで観ると正直歌は上手と言えなかった。

でも彼らは「踊り手」なんだから仕方ない。だって歌は専門外だもん。

それがどうだろう。いつの間にかハモリは当たり前、三声、場合によっては四声で

コーラスグループのように歌う。しかも踊って歌う。

そして幕張でイヤモニをつけて初めてライブをしたら、ビックリするくらい音が外れない。ちょっとのズレさえほぼない。

泣きながら踊りながら歌ってもブレない。

「踊り手」なんだから「歌が下手でも当たり前」。

そんな評価はいつの間にか消えて

「歌が武器の一つ」になっていた。声の響きで人を感動させることが出来る「アイドル」になっていた。

 

アンコール後の挨拶。

エースで常に自信に満ちたあおいくんがコロナ禍での不安だった一年を語った。

リーダー白服さんは現場に来た人が一抹の罪悪感や後ろめたさを感じながら来ていること、来られなかった人が申し訳なさを感じていること、それらすべてを掬い上げて肯定し、選択をする苦しさや切なさを労ってくれた。

突然降りかかった世界レベルの厄災に

ライブは日常のものでは無くなってしまった。

去年の春先は、今を我慢したらきっと梅雨ぐらいにはライブに行けると思ってた。

でもそんなことはなくて、エンタメ自体が悪のように言われるようになった。

秋頃から各地で恐る恐るとライブが行われるようになって

今も誰もが行ける状態ではなく、日常だった趣味は慎重に慎重を期す一大イベントに

なってしまった。

彼らの不安や渇望は、初期から彼らを支えてきたhalyosyさんの手で歌となり彼らの声で私たちに届いた。

「夢は努力を裏切る 平等なんて叶わない そんなのとっくに知ってる」

「なのに何一つ諦められない」

「君に会いたくて 君に会いたくて 君に会いたくて 君に会いたくて」

「今すぐ名前を呼んでよ」

求めるように伸ばされた腕に、涙混じりの歌声に、それでも美しく交差する彼らの舞に、涙を止めることなんて無理だった。

何一つ諦めないでくれてありがとう。

ライブをしてくれてありがとう。

あんな広い会場で少しでも近くに来ようとトロッコから手を振ってくれてありがとう。

今すぐ名前をコールしたい。接触とかトークコールとかじゃなくて

ライブ中にあなたの名前を呼びたい。

出会ってから7年。そうやって名前を呼んで画面の向こうじゃない君たちに私は夢を貰っていた。

 

そして幕張メッセ公演前日に35歳になった推し、野崎弁当は「もっともっと」という言葉を使った。

Zepp公演でも野崎さんは「もっともっと」と言っていた。

あれから6年。歌もダンスも本当に上手になって、外部の仕事もするようになった推し。

それなのに「もっともっと」と上を目指す声はあの頃と同じに聞こえた。

そのことがどうしようもなく嬉しかった。人は変わるし、変わらなきゃいけないこともあるけれど、35歳になった野崎さん、変わらないでいてくれてありがとう。推していて良かった。幕張に立てて良かった。

いつか武道館に立った日に、同じように「もっともっと」と言ってくれたらいいな。

それを無数の茶色い光の一つになって見つめることが私の新しい夢だ。

 それでは、またね。

 

2020年が終わるので推しのことを語る話

こんばんは。茶推しです。

正直、なんだかよくわかんないうちにもうすぐ2020年が終わろうとしています。

 

実感がないまま桜が咲いて散って、いつの間にか半袖を着るようになって

ふと気が付けば銀杏が黄色い絨毯を踏み、今はもうコートを着て北風の中通勤してたりする。

季節が進むたびに「まだ三月のような気がするのにな」って思う。

 

三月。MeseMoa.の全国ホールツアーの一部中止が決まった月。世界が変わっていく足音をすぐ背後で聞いた月だ。

 

四月にトークコール会が始まって、最初の日に聞いた推しの声は安堵に満ちていた。

お互いが存在していることにホッとしている声。

特に何かを話したわけじゃないけれど、なんだか一番印象に残っている接触だ。

そこから、推しと直接会わない世界がスタートした。

 

変なもんだなって思った。

一年のほとんどがライブ期間だったような昨年ではありえないほど、

いろんな供給があった。

緊急事態宣言下ではフォーゲルさんの放送が頻繁にあって

緑推しではない私は普段あまり接したことのないフォーゲルさんの姿を

生放送という形でたくさん知ることが出来た。

ガッツリ単推しな私だけどペアライブで他のグループのメンバーのことを、こんな人で、こんな踊り方、歌い方をするんだなぁと少し知ることも出来た。

自分の体に不安があるので客入れのライブに不安があったから

オンラインでのライブは本当にありがたかったし、仕事でリアルタイムに観ることが出来なくてもアーカイブで観られることや何度も見返せることも新鮮だった。

時間が合えば色んなメンバーの放送を見て、

ペアライブやソロライブの気に入ったライブを何度も見返して

いろんな方法で何度も開催された全員放送に笑って、

Galaxy5のライブに涙して、あぁそこに行きたかったなぁ、メンバーはもっとだろうなぁなんて思って

こんな情勢にも関わらず推し事には事欠かない一年だったのは驚くべきことのような気がする。

 

個人的な話。

私は喋り下手で緊張しいで考え過ぎなタイプなので接触が不得意です。

とくにオンラインやトークコールは現実に目の前にいるより難しい気がします。

「推しなんだから緊張して当たり前。それが推してるってことだ」と開き直っても

やっぱり無言になったり、盛り上がりもなく上っ面な会話で4分間過ぎ去ったときなど、地獄の淵をぼっちで散歩してるような気持ちで心細く泣きたい気持ちになります。しばらく立ち直れません。もう世界終わった。人間失格、グッドバイ。

 

 

直接感想や想いを伝えられるなんて有難い機会なのに、

いつだって自分の不甲斐なさのせいで接触のあとは少し苦しい。

他のメンバーならただ楽しいだけで接触できるのに

前沼のミュージシャンも芸人さんもめっちゃ活躍していて

今でも観れば楽しい気持ちになるし満たされるのに

 

それでも野崎さんを推すことをやめられないのは何故だろう。

どうしたって視線が野崎さんを追ってしまうのは何故だろう。

 

遠征に行くことも友達と直接会って話すこともなく

自分ひとりで推し事をする時間が多かったからだろうか。

そんなことも考えた。

 

接触上手く話せなくて悲しくてツラくて自分に嫌気がさして、接触卒業しようかなって思い悩んで

それでも、ソロのステージを思い出すと

私は何度だって胸を突かれてしまう。

あのソロライブを見返すたびに何度でも涙が出てしまう。

一人でシナリオを考え、他と違った世界を作り、表現した。

そのために本来の曲が持ってるメッセージとは別のメッセージを

歌詞を変えるのではなく表現一つで表した。

ライブを重ねるたびに変わっていく歌唱にもいちいち驚かされる。

この一年で何度となく変化を見た。客前に出ていないはずなのにどうして。

どうしてそんなことが出来るのですか?

けっして器用な人ではない。そんな人が舞台というきっかけから掴んだ交友関係を広げて

新しい世界に踏み出して、外部の世界でMeseMoa.の名前を広げて

客入りのないライブを重ねながら歌の表現を深化させて

ダンスは苦手って言いながらもきちんと難しい振り付けに食らいついていき

ソロライブでは観客を別の世界に連れて行ってしまう。引き込んでしまう。

その努力に、才能に、私は何度だって沼落ちしてしまう。才能ってずるい。

だけど、それが私が野崎さんを推し始めた原点。

いろいろ考えた末の原点回帰。そんな2020年。

 

2020年11月。豊洲のリリイベ。実感もなく席に座って開演を待っていた。

(やっと生で観られる)みたいな感慨もなく。

だけどいつもの出囃子が鳴った瞬間、涙が出てきた。あとはもう踊って歌う姿を見てるだけで涙が止まらなかった。存在が救いだと思った。持ってて良かった推しタオル。

 

だから私はきっと2020年やそれ以前と同様に、ぎこちない接触を繰り返しながら

2021年も野崎弁当推しで生きていく。

 

それでは、またね。

魔法のステージと谷口吉田の話(野崎弁当ソロライブ)

5/26 野崎弁当さんのオンラインソロライブが行われた。
株式会社DD所属アーティストが日替わりで一時間ずつ(研修生は30分)枠を与えられて、セトリから衣装まで一人で考えて披露するライブ。その中の一枠だ。
ご本人がセトリと内容について語ってるので大丈夫とは思いますが
lineblog.me

ここからネタバレしかありませんので読みたくない人は引き返してください。


creamさんの配信サービスで購入した動画は何度も見返せるというので、わりと気楽な気持ちで見始めた。
もちろん楽しみな気持ちは標準装備なので、そこはもう当然。
普段のライブでは「ふわーっ」となってしまって、ライブ後の特典会でも手紙でも伝えたい言葉が上手く出てこないので、今回は思ったことをメモしながらライブを見ることにした。そういった意味での気楽さだ。
私はかつての記事で野崎さんは魔法を使えると書いた。
野崎弁当は魔法を使えるって話。 - 茶色い沼からこんにちは
MeseMoa.のソロコーナーでも片鱗を見せるけど、最近は四肢が千切れて飛びそうだったり、謎に鬼気迫ってたり、上手から下手まで高速で平行移動していたり
それはそれで面白いし大好きだし野崎弁当なんだけど、それだけじゃないんですよ最近ファンになった方にこそ観て欲しいんですよって思ってた。
野崎弁当の表現力はこんなもんじゃないんだって。
今回は一時間、野崎さんが好き放題やれるソロライブ。もしかしたら、あのステージを別の空間に変えてしまう魔法が観られるかもしれない。
でもな、生のステージじゃないからどうなんだろうな。観られたらいいな。
そんなふうに思っていた。

さて、ここからザックリと簡単にレポを落とします。感想が多い少ないも感想の内容も本当に個人のアレなんで許してください。

眼鏡にスーツ、その上に上着を羽織った穏やかな喋り口の野崎さんが椅子に腰かけノートを朗読します。そして、暗転後明るくて穏やかな声なのにどこか調律のおかしさを感じさせるテンションで
「今日は谷口のライブに~」とマネージャー吉田称する野崎さんが前説を始める。

カオス。

「いや谷口誰だよ、オードリーの親友かよ。野崎弁当のライブ観に来たんだよ。ていうか、吉田ってだれ?」
などと、私は茶化しながら観ていました。でも、その声とテンションにゾワッとした何とも言えない恐怖を感じていました。
そして音楽が始まり、上着を脱いだNSスーツのいつもの野崎さんが現れて、私は「なんだよ」って言いながら物凄くほっとしたんですね。この先のことなんて予想もせずに。

「ON」 ほとんどセンターにいたことが無かった野崎さんがセンターで歌い出して感動したんですよね。
あの頃「好きな曲は?」の問いに「ON、僕が目立つから」って答えたことがあり可愛いなぁって。
CDとくらべてわかりやすく歌い方が変わっている曲です。「きみのとこまで」の部分が前は音程の上がり方が急角度だったんですけど今は緩く柔らかく聴きやすい音ですね。
あと、最後のポーズはぜっちゃんと対になるウーロン茶のポーズなので、それもまた感動ポイント。

MC 汗だくなこと、水分休憩及び汗拭きタイムをちょくちょく挟むこと、緊張のせいで「ライブ前の記憶がない」ことなど。

「モンスター」 Rの反転をどうしたらいいかわかんなかったのでカタカナ表記で。セクシー。拘束ポーズセクシー。こういう男性的な激しめの曲が似合いますね。
あと、この裏声綺麗ですよね。なんか色気があって意外と儚い感じで。

MC モンスターを選んだ理由。

「今だけは」 踊りが今回のライブで一番野崎さんらしいっていう感想を持ちました。個人の見解です。あと、キーが高い曲ですね。女性でもキーを変えずに歌えるので、声が低めの野崎さんにはきつかったと思う。
それが「切なさと切実さ増し増しver.」みたいになってましたね。リラブはカッコ良くてね、切なさよりもカッコいいというかクールというか。

MC 今だけはを選んだ理由。質問コーナー(ボックスを取りに行ったけど、ステージ端に置いておいたのを忘れて戻ってくる)。「吉田について→言われても、パッと出てこないんですよね。吉田ってやつがいたような気があるんですけど。思い出が出てこない。なんだったろうな。わかんないんでパスします」 ボイスドラマについて 電波環境が良くなること

「大逆転ディーラー」これは大正解だし優勝だし大賞ですよね。セリフ全部言ったのも最高に素晴らしいし天才だし歌も合ってるし、公開もされてるから特にいうこともないんですが、表情の面でいうとしみじみと
「この人は自分のどんな表情が魅力的なのかをちゃんとわかってるんだな」って思いました。自分の魅せ方をわかってるってアイドルとしても演技者としても重要なことだとです。
そして、額に寄る皺に挟まりたいって思ったのは私だけじゃないと思います。

MC 大逆転ディーラーを選んだ理由 MeseMoa.では披露する機会のないえちえち弁当 つるてぃさんの「早く」に感銘を受けた話。

「センチメンタル」 本家が「今」のセンチメンタルだとしたら、野崎さんは「過去」。郷愁のセンチメンタルって感じました。
 思いが強すぎて伝えられなかった気持ち、すれ違ったまま離れた幼い別れ。だからこそ思い出は強烈に色濃く美しく残って、ときに胸を掻きむしるほどのセンチメンタルに襲われる。
そんな恋、ありませんか?

MC 突然投げ込まれるスケッチブック「今日のセットリスト」。すべての最初の文字を繋げて読むと浮かび上がるメッセージ「お も い だ せ」。
   頭を押さえて倒れ込む野崎さん。穏やかな、でも調律が違うような優しいけどゾッとする声「思い出してくださいよ。あなたは誰ですか? いつまで自分のことを野崎弁当だと思っているんですか?」


ここから始まるストーリーで私はメモを取る手を止めました。いや、止めたのではなく書くことが出来なかった。飲まれた。圧倒された。
恐怖に身じろぐ谷口に、トモダチだと自称する吉田が谷口の罪を語る(頭を抱えているので、きっと脳内に響いているのだろうと推測される)。
谷口と吉田はトモダチだったが、谷口は吉田に対して罪を犯した。吉田は谷口を殺したいほど憎み、この世から消すための罪を犯した。そんな結末に耐え切れない谷口は
ちょうどいい器の野崎弁当の中に逃げ込み、罪の記憶から逃れるために自分は谷口ではなく野崎弁当だと思い込むようになってしまった。そんな谷口を止めるために吉田も野崎弁当の中に入った。
それが谷口と吉田の物語。野崎弁当の中にある108の人格の中の二人。
その物語が語られたあとに「きみがきみであることを思い出して欲しいから」「これは君の罪と罰」「そして、僕の罪と罰」という吉田の言葉で始まる、おそらく谷口の「I AM」。

「I AM」 何かに怯える表情。「戦うんだ」という声に怯み、「僕は僕だ」と歌い、はっとしたように目を開いたあと、手を震わせて無の表情。がっくりと膝をつく。
脅え耳を塞ぎ、落ち着きなく周囲を見渡し頭を抱え手で何かを振り払い、降りてくる「変わらなきゃ」などの言葉に苦悩し、「僕は僕だ」という言葉に逃げまどう。
そして、最後「強くなれ」の声に諦めと絶望の表情を残して音楽は止まり、「僕は強くなれなかった」軽く拳を空に打ち付けてから、「自分に負けたんだ」と谷口はほんの少し自嘲の笑みを浮かべてステージを去る。

「戦うんだ」と言われても戦うことが怖い。「変わらなきゃ」って言われても変われない。「強くなれ」って言われても弱い。
「自分であること」から逃げたくて、でも自分からは逃げることは出来なくて、自分という存在はいつでもいつでも付いて回る。そのことに絶望してしまう。
かつての自分の中に、もしかしたらきっと今の自分の中にもある弱さ。
私は野崎さんを眩しい光の中にいて正しいことをいう人だと思っていたから、この解釈を作って演じたことに衝撃と救いを感じてしまった。
かつての自分を掬い上げてもらった気がした。

MC 暗転後、ぼうっと浮かび上がる光。その中、椅子に腰を掛けた吉田が浮かび上がる。
「僕のお話は、ここでおしまいです」
先ほどまでのどこか調子のおかしい、人を不安にさせる明るさは鳴りを潜め、穏やかで優しい声の吉田が観客に語り掛けます。
このステージで観客が観たものを説明します。野崎弁当の中にある二つの人格、谷口と吉田の存在と関係性。
罪の記憶から逃れるために野崎弁当に成り代わろうとする谷口と、それを止め谷口に自分自身を思い出させて再び眠りにつかせようとする吉田。
永遠に繰り返されるこの世界を「それでいい」と肯定する吉田の表情には不思議と希望と慈愛がある。
そして、谷口と自分(吉田)に向けてお別れの歌「BlackRose」を歌い始める。

「Black Rose」 低音綺麗に出るようになりましたね。聴きやすいなぁと。さておき、吉田の表情は「それでいいのです」と穏やかに言い切ったわりには冷たい。
少しの苛立ちも含んだような上着を脱ぎ、ネクタイを弛める。そして間奏の間に頭を片手で押さえよろめきながら、まるで誰かに触れるように手を上げ一瞬口元を綻ばせ、またよろめく。
そこから最後のサビに入るのだが、それまで冷たく淡々とした表情だった吉田は胸をかきむしるようにして絶唱する。
「さぁ、振り出しへとリピート」この最後の歌詞の一瞬前、ちらりと吉田は笑う。優しくない、何か企むような冷たい笑い方。だが、この詞を歌う吉田はどこか虚無感に溢れている。
そして、疲れ果てたような表情でスッと背中を向けるのだ。その姿は、私の目には今にも泣いてしまいそうに見えた。

そうやって本編が終わる。

谷口と吉田のことに想いを馳せる。吉田が谷口に自分自身を思い出させたとき、谷口が開口一番言ったのはこのセリフです。
谷口「吉田……違う、吉田、俺が悪かったんだ、ごめん、俺が、吉田」
谷口は吉田に対して罪を犯そうと思ったわけではないんじゃないだろうか。
谷口の持つ弱さ臆病さが何かしらでまかり間違って、トモダチだった吉田を裏切るような形になってしまったのではないだろうか。
吉田「そしてきみは罪の記憶から逃れたいと思うあまり、自分を野崎弁当だと思い込むようになってしまったんだ。だから僕も野崎弁当の中に入ったんだ。きみを止めるために」
吉田にこの世から消された谷口は魂だけの存在だから野崎弁当の中に入り込むことが出来た。そして、それを止めるために野崎弁当の中に入り込んだということは、吉田もこの世のものではない。
吉田「だから、僕も罪を犯した。きみをこの世から消すために。きみはその結末に耐え切れなくて、ちょうどいい器の野崎弁当の中に逃げ込んだんだ」
この、谷口が耐え切れなかった結末とは、「吉田を何かの間違いで裏切ってしまう形となり、その結果吉田が谷口を殺し自分自身も殺してしまった」という結末なのではないか。
谷口はその罪と結末にずっと苦しんでいる。自分という存在から逃げ出したいと思っている。そして野崎弁当に成り代わって罪から逃げようとするたびに吉田が現れ「僕は僕だ」と
残酷な宣告をされてしまう。誰しも「自分であること」から逃げられない。
では吉田はなぜ、谷口を追い続けるのだろうか。
「野崎弁当のため」と言いながら、「それでいいのです」と微笑みながら、「Black Rose」を歌う彼の表情に優しさや穏やかさはない。
無関係な野崎弁当を守るためと理由付けしながら、別の人間に成り代わって罪を捨ててリセットしようとする谷口を追い詰め苦しめることが復讐だからか。
それだけではない気がするのだ。
リピート、繰り返し、そうやって谷口を追い続ける吉田の背中に、私は疲れと悲しみを感じてしまったのです。
トモダチだった谷口に自分と向き合って欲しい。罪を真正面から受け止めて欲しい。そして、そのうえで谷口を許したい。
そんなふうに思えてしまうのだ。
まぁ、すべて私の妄想なんですけども。


最近ファンになった人こそ野崎弁当のソロを観て欲しい。そう最初に書きました。
「野崎弁当の表現力はこんなもんじゃない」「ステージを別の世界に変えてしまう魔法」
覚悟が足りなかったのは私の方だった。私の想像のもっともっと先を行く人でした。私はとんでもない人を推していた。

ところで、今まで出てきた野崎弁当の人格ですが2ペアですよね。「野崎弁当(藤兵衛)と蘭千代」そして「谷口と吉田」。
対になる存在が必ずいるのだろうか。108の人格。奇しくも偶数です。
それならば
ノッコさんと対になる人格っているんでしょうかね??(ノッコさん→野崎弁当の中にいる、餡団子が大好きな人格。声が高い。むすたま。に出てきた)

それでは、このライブの感想を終わり──、あ、ラストの「エビバデダッシュ」があった。
「エビバデダッシュ 野崎さん本当に大好き!! めちゃ可愛い。ステージをあんな走り回って裏回って戻ってくるなんて普通しないしさすがの終わり方。

あれが、野崎弁当さんだったのかはわからないですけどね。


おしまい。